冬の北海道

安廣一哉の独り言

1人お通夜

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今日の夕方、幼年部と少年部のちょうど指導の合間に親父から電話があり

今大丈夫か? 指導の合間だから少しなら大丈夫だよ! と応えると

いい話じゃないんだけど、次男兄さんが亡くなった。

突然の訃報に、マジかい、と次男兄さんとの思い出が一瞬、走馬灯の様に沢山思い出されました。

親父の兄さんではありますが、兄弟で20歳の年の差があり、享年91歳でした。

次男兄さんは樺太で生まれ第二次世界大戦の終戦後旧ソ連軍が終戦後にもかかわらず北海道を占領しに来た為、樺太に在住していた爺ちゃん、婆ちゃん、次男兄さん、敏男兄さん、スエさん、清友兄さん、トキ姉さんと家族7人で命からがら北海道に引き揚げてきたそうです。

当時樺太にいた30万人前後の日本人うち20万人前後の人が北海道に引き揚げたそうで、中にはソ連軍の砲火で沈んだ船もあったとか。中には捕虜にされた人もいたり、捕虜を逃れるためにために自決した方もいたりしたそうです。

 本当に命びろいをして北海道に引き揚げることができたんですね。

その後難民の受け入れ先が旭川にあり、旭川にきたそうです。次男兄さんは当時15歳だったそうで昼間は旭川郵便局で働き、夜には旭川東高校の夜学に通っていたとか、そんな年齢で家族の家計を助けていたと聞いています。

何もないところから家族で一からやり直して、家族で力を合わせて必死に1日1日を生きたんだと思います。

当時次男兄さんは15歳で働きながら学校に行き、家計を支えていたそうですが、自分の15歳の時と比べたら、どれだけ恵まれて、どれだけ幸せな状況だったのか自分はバドミントンで全国大会に行く!! ってスポーツに夢を抱き、追いかけ、自分の事しか考えないで自由気ままに毎日を過ごしていました。 

 食べるものにも、着るものにも何一つ心配もなく。

いくら時代が違うといえ、自分の小ささが恥かしいくらい、次男兄さんのデカさに心から尊敬します。本当に自分は小さい。

そんな家族で一から旭川で生活をやり直した4年後に 爺ちゃん47歳、婆ちゃん38歳、親父が10人目の子供として生まれました。

なんたるバイタリティ。爺ちゃん婆ちゃん。

 兄弟で20の歳の差の兄さんは自分の子供の様に親父を育ててくれたそうです。 親父が小さい頃、旭川の常盤公園の池に連れてってもらって、親父はこれが海!!? と次男兄さんに言った事を憂い翌年次男兄さんは海に連れて行ってくれたそうです☺️

次男兄さんには僕の親父も育ててもらい、僕も孫の様に可愛がってくれ、思い出は数えきれない。

そんな叩き上げの次男兄さんは高卒ではありますが旭川の郵便局長まで出世しました。

親父が生まれたのも次男兄さんの支えが無くして親父も生まれなかっただろうし、と言うことは僕もこの世に存在しない事になります。

こうして家族の力が合わさって始めて命が受け継がれていくのだと改めて感じました。

 そして今の自分があるのは爺ちゃん婆ちゃんを始め親父の兄さん姉さん達のお陰以外何者でもありません。

今日は次男兄さんとの思い出を思い返しながら、飲めないお酒を1人で飲んで

1人お通夜をしていました☺️

次男兄さんと最後に会ったのが、昨年末結婚の報告を兼ね会いに行ったのが最後でした。 写真真ん中が次男兄さんです☺️

左が親父、親父とそっくりです。

俺も似てきたな〜

人との出会いや別れはその時が最後になるとは誰も思わない、だからこそその出会いが時間が今日で最後かもしれないと思いその人と時間を過ごす事が、実は礼儀であり、全力を尽す事になるのかなと思います。 そうやって時間を過ごすと悔いは残らない。

 これからもそう生きたい。

次男にさん、今まで本当にお世話になりました。 次男兄さんから学んだ事をこれからも活かし安廣道場の弟子達に継承していきたいと今日改めて心に誓いました。

心からご冥福をお祈りいたします。  ありがとうございました☺️  一哉

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